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愛犬ハル

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    16年我が家の家族として、楽しませてくれた「晋平」が2005年 3月息を引き取りました。 代わりに今度は女の子を購入しましたが、恐がりで人になつか ないのが困りものです。 春に来たからハルと名付けましたが、血統書付きで本名は 「文美姫号」です。

国府物語

2015年5月 8日 (金)

長楽寺の花祭り

我が家から徒歩で20分、国府駅に近い山の中腹に水生山長楽寺があります。
長楽寺縁起には「奈良朝の和銅年間行基菩薩により開創された寺で、平安朝時代に真言宗に改められた・・・」とされる古刹です。
また山頂には水生城がおかれ、南北朝期には南朝方の、戦国末期には山名方の拠点として羽柴軍と戦った「水生城の合戦」で寺も焼失したとされます。


麓の登り口              仁王門
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境内には推定樹齢500年とされる県指定天然記念物の散り椿が有名です。
(丸ごと落ちる普通の椿と違い、花びらが1枚ずつ散るので散り椿と呼ばれています。)


我が家の檀那寺ではありませんが、寺に上がるには石の階段を10分位登るのと国府の町並みが見渡せるので、運動がてらお参りに行くこともあります。
庫裏・持仏堂              国府の町並み
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本堂(瑠璃殿)             中井権次 龍の彫刻
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            <写真は1月末に撮影>

今朝8時頃何気なく登ってみると、お祭り準備がされています。
旧暦の4月8日でなく今日がお釈迦様の誕生を祝う「灌仏会(花祭り)」ということで、甘茶を振る舞っていただきました。

本堂に「今年で 2559歳」と書いてあったので、紀元前544年生誕としているのでしょう。
そういえば昨年も偶然5月8日にお参りして、甘茶をいただいたことを思い出しました。

小学校の同級生だった寺の跡継ぎがいて、花祭りには寺で甘茶をいただいたり、本堂前に出ていた数店の露店でお菓子をおごってもらいました。
小学生といえども丸刈り頭がほとんどだった当時、私と彼だけがおかっぱ頭だったことも仲がよかった理由でした。
その彼も小学校を卒業すると「高野山中学校」に転校していきました。
その後寺を継がずに電気屋をしたり、いろいろな人生を送ったようです。
そんな彼も病で亡くなりましたが、花祭り時期になると甘茶の味とおかっぱ頭の顔を思い出します。
  

2014年4月14日 (月)

御柱祭り 婆焼き行事

朝晩は冷えても暖かいお天気が続き、満開の桜も吹雪きや花筏が見られるようになりました。
4月14日は老婆の人形を火あぶりにする奇祭で知られる日高町松岡区の御柱(おとう)祭りの日です。
御柱松と呼ばれる枝着きの松に女竹(鉄砲竹)などを用いて鉢を作り、先端に御幣と老婆に似せた人形を仕立て、焼き捨てる行事です。
お柱松と鉢               老婆の人形
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十二所神社              婆焼きの由来
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祭りの由来は、1300年頃、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この地で王子を生み落としました。しかし、産後のひだちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて20日はかかる」と答えました。 これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
 その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、その霊を祀ったのが始まりと伝えられています。竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。(但馬の百科事典より)


承久の乱は鎌倉時代武家政権への上皇方のクーデターで有名ですが、その影響が但馬の地に残り、引き継がれているのは興味深いものです。
春先の気候でこの時期には、強い南風が吹いたり、円山川に水害が多く発生することに対する安全の願いが、故事を元にした祈りに変わったという説もあります。

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折から晴天続きで、「パチパチ」と大きな音で燃え上がる鉢を国道沿いから多くの人が見入っていました。

他に川沿い数カ所で、お塔祭りと呼び、同様の神事がおこなわれていました。
私が住んでいる府市場区では、今でもこの日に神事をおこなう「お塔講」が残っていて、村の有力者が出資をして「お塔田」を所有し、その年貢や売買後の利息で、祭りの経費をまかなっていた記録が残っています。

2013年4月11日 (木)

松岡 御柱松(おとうまつ)

豊岡市の民俗無形文化財に指定されている、日高町松岡区「御柱(おとう)まつり」に使用する松の準備が終わっています。
松岡区では区を二つに分け交代で担当していますが、松枯れが広がり枝振りのよい松を探すのがなにより難しいのと、雌竹の切り出し・稲藁の調達と朝からの鉢づくりなど大変な作業がおこなわれます。
祭礼は414日(日)、場所は十二所神社・松岡バス停付近の河川敷で、火入れ時刻は午後640分頃、国道沿いで交通量が多いので、見学は堤防法面からとなります。
     本番に向けて準備された松
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通称「婆焼きまつり」と呼ばれ、松に雌竹(鉄砲竹)と藁を結わえ、先端部には人形を縛り付けて、火あぶりにします。
由来は承久の乱(1221年)で北条方に破れ、流された後鳥羽上皇の皇子六条宮雅成親王の配所現豊岡村高屋まで、身重の身ながらも下られた妃幸姫が松岡の里まで辿り着かれ、土地の老婆に道を尋ねたところ、「配所の高屋まで七日かかる納屋、九日かかる九日市、十日かかる豊岡、その先は人をとる一日市を越えたところ」と言われて、絶望し川に身を投げた妃の霊を慰めるため命日に行われます。

尊いお方の但馬配流という史実と旅の途中出産時に川に身を投じて亡くなった王妃の慰霊という悲劇伝説。
この時期南風が吹き増水被害があり、疫病や害虫を退散させる為焼き殺すという豊穣祈願伝説の両方があり、良く燃えた年は豊作といわれています。

御柱祭りについては、特派員みきちゃんの投稿 「但馬情報特急 - 御柱祭り 婆焼き」
         
http://www.tajima.or.jp/modules/furusato/details.php?bid=2832 


  

2013年1月25日 (金)

国府駅物語 Ⅲ

山陰本線京都・下関間が開通したのは、桃観トンネル余部鉄橋が完成した明治45年ですが、その3年前の明治42年に江原駅が建設されていて、開業100年のお祝いも2009年に行われました。

この江原駅新設に関してはいろいろ紆余曲折があり、八鹿-豊岡間17.2kmの中間点を原則として考えられた。その場所は松岡、土居にかけての地点が該当したが、この付近の住民は円山川の舟運に頼っていた者が多く、農民は零細な小作が主であって、「わらじ」を作って舟の関係者や旅人に売って生計を営んでいる面もあり、鉄道がつけられれば失業するとして反対した。
次の候補になった府市場、府中新も鉄道が敷設されると・・・
①住民が夜逃げする
②泥棒が侵入する足場を与える
③煤煙により桑の木が害を受ける
④青年が堕落する
などの理由をあげ、国府村会もこれを受けて駅の設置を拒否する決議をしたためにこの案もながれた。
<日高町老人クラブ 「日高のむかしばなし」より>


これはあり得る話しとして聞いたことがありますが、国府新駅建設の「停車場設置請願書」を逓信大臣に提出したのが明治41年、江原駅開業の前年にあたります。
もしほんとうなら駅建設はずっと前から検討されていたとはいえ、国府村民に先を見る眼がなかったことになります。
「もし・たら・れば」が許されるなら、その時国府地区内に今の江原駅が設置されていたら、町の形成や繁栄は大きく違っていたでしょう。
 

2013年1月24日 (木)

国府駅物語 Ⅱ

人や物が行き交うには水路や道路・鉄道など交通が欠かせません。
円山川の水運や未整備の県道を行き来する馬車に頼っていたのが、鉄道が明治41年に和田山八鹿間、翌年には城崎まで延伸されました。
国府駅は40年に及ぶ国府村民の請願活動によって、昭和23年10月13日開通式が挙行されました。
駅設置に際し国府村側から、次の二点が申し出されています。
①駅敷地は全部無償をもって寄付すること。
②敷地の土盛費及び建築費等全額地元負担とする。
       国府駅 旧駅舎
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土地代と建設費用は、国府13部落が新駅への距離(利便性)や戸数・経済力をもとに幾多の利害調整によって決定され、人夫も割り当てされました。
(総工費 262万1千631円)
この駅から2番目に遠い上郷区でも負担金約16万5千円を、気多神社参道の樹齢3百年から6百年の松並木51本を17万8百円で売却して捻出したという記録が気多神社誌に残っています。

『気多神社の松畷の松樹数百年の老松を伐採に着手し、氏神の象徴として但馬にも珍しき崇厳なるものにして、当村に生を得たる者は勿論、通行の者も杖を止める位の品位を有し当村唯一の誇りたらん老松も今日限り姿を没するは実に氏子として、又当村を担当する区長として誠に遺憾至極の次第にして後年の村人の多くは叱責さるることは深く覚悟はしましたが、国府駅設置は全額地元負担にして、遠き将来を勘案する当村としては立地条件として賛成し難きが、国府村政上、上郷橋を県道編入と云う交換条件には坑するを得ず、然し村民は今一戸約弐千円の負担は事実上出来難く万難を排して責任を一身に負いて惜しみて尚余りある之の老松に村の救助を仰ぐ以外に策なく決行す。
後年の氏子諸賢の清鑑を仰ぐ次第であります。(昭和23年度駐在員総代 区長)』 


ここには全村一致の運動であったとはいえ、経費の負担となると駅から遠く利便性が低下した部落の心情や交換条件などの駆け引きも読み取れます。
上郷部落だけでなく新駅建設は決まったものの、費用全額負担は当時の村民にとって過大なもので相当苦労したことがわかります。

府市場部落の割り当ては約21万円、昭和23年といえば敗戦直後、物も金もない時期に巨額の負担金をどのように捻出したのか会議議事録などから調べてみるつもりです。
 
 

2013年1月23日 (水)

国府駅物語 Ⅰ

伊佐屋のある府市場から一番近い駅は、1.5km離れた山陰線国府(こくふ)駅で、徒歩で17~18分です。
国府とは、令制時代に置かれた国の国司が政務を執る国の役所が置かれた都市で、ほかに国分寺・国分尼寺などが設置され文字通り中心部であったところとされます。
はるけき昔但馬国府の中心部であったとされるところからこの名が付けられたものです。

60余ヶ国を数える律令国にあるJRの駅で、国府駅と名付けられたのはこの駅で、他は飛騨国府駅のように旧国名を付けて呼ばれます。
通学自転車が並ぶ駅前      列車時刻表
20130119_105933 20130119_110042
駅でのすれ違い
20130119_111206_2隣の豊岡駅まで一駅でしたが、高校時代に3年間通った駅も車社会の今では学生中心の利用と変わり、昭和45年に玄武洞駅・餘部駅とともに無人化され、その後駅舎も取り壊されました。
先日久しぶりに国府駅から城崎温泉駅まで利用しましたが、この駅を巡る昔物語を調べてみました。
(参考図書:国府村史下巻、上石物語、日高辞典ほか)
 

 

2012年2月21日 (火)

昭和59年冬

28年前の昭和58・59の2月、植村直己さんがアラスカのマッキンリ
ー(6,194m)で消息を絶ちました。
「はい、植村です。ただ今約2万フィートです。昨日の夕方、昨日の
午後6時50分に登頂して、今下山中です」最後の交信記録でした。

大阪からUターンした年でもあり、よく覚えています。
直己さんは隣村上郷出身で、当然のことながら幼・小・中は同じで
豊岡高校の先輩でもあります。
この年、国民栄誉賞を受賞しました。

生地上郷の頼光寺にあるお墓には、「乾坤院直心不撓居士」の
が文字が刻まれていて、乾坤・不撓が彼の生き様を表しています。

2011年6月 1日 (水)

鮎解禁日ですが・・

6月1日は円山川本流の鮎漁の解禁日です。
今年は雪解けが遅く、水温が低いため生育が遅れている
と聞きましたが、若鮎のジャンプも一部で見られました。
本来なら朝まだ明けやらぬ頃から、釣り人が糸を垂れるの
が見られる上郷橋付近ですが、台風2号と今朝からの雨で
増水し、鮎釣りどころではありません。
       増水した上郷橋付近
    Img_0776_2
上郷橋下流約200mは網が禁止になっていて、幼少期の
鮎の習性を利用した、疑似毛針による「どぶ釣り」の好漁
場になっています。
水が減れば、早朝と夕暮れは釣り人による気の長い闘い
が見られるはずです。
 

2010年10月14日 (木)

米どころが蕎麦どころに

私の住むのは国府平野の近くで、昔から有名な米どころ
でです。
「大規模経営、担い手農家の育成、地域の活性化」の名
の下に、「圃場整備」を5年前に終え、一区画が75m×
200m=15,000㎡(150㌃・1.5㌶)、昔流で言うと、1町5反
の大規模圃場も生まれています。
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効率的な大規模圃場は生まれたものの、日本の農業事情
を反映して、生産調整=作付面積の削減が求められ、相
当部分の「減反」を余儀なくされています。

一昔前まではレンゲや飼料を植えて地力を高めたり、ヒマ
ワリやコスモスで、景観を作り出したりしていましたが、最近
蕎麦の作付けが目立つようになりました。
一面の蕎麦畑           蕎麦の実
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蕎麦は、肥料が少なくて済むのと栽培に手間がかからず、お
盆過ぎに種をまくと、10月末に実をつけます。
収穫に適したコンバインがないのと収量が少ないので、収穫
せずに転作の検査が済めば、そのまますき込むこともありま
したが、近年やっと出石の蕎麦組合で引き取ってくれたり、地
域で蕎麦づくり会を楽しむことも多くなりました。

日本で消費される蕎麦の7割は中国から供給されていて、国
内は北海道産が中心といいます。
この夏のロシアの大干ばつで、蕎麦(実)の大消費国ロシア
(日本の10倍)が中国産を買いあさっていて、材料の値上がり
が予想されます。

「風吹けば桶屋が儲かる」という、回り回って思わぬところが
利益を得ることわざがあります。
いままで重視されなかった但馬蕎麦の生産と消費がこれから
見直されるかも知れません。
夏の熱波と酷暑の影響で、桶屋になるのは・・・・。 
 

2010年4月21日 (水)

郵政記念日 府中郵便局の沿革

逓信省(現在の郵政事業庁)が、1871(明治 4)年3月1日(新暦
4月20日)、それまでの飛脚制度に代わり新しく郵便制度を実
施しました。
東京・京都・大阪の三都市と東海道線の各駅で、郵便物の
取扱、切手の発行が始まり、翌年にはほぼ全国的に実施さ
れたことにより記念日として制定されました。

国府地区には「府中郵便局」と名付けられた局が、府市場に
あります。
その沿革誌によると・・・
「当府中新外近隣数村を合わせ、古来府中組合と称して、
其地位実に但馬の中央、四通の要衝に当たりしも、当初
不幸にして郵便局の開設なかりしを以て、明治十四年二
月、村内有志、長沢実二郎、自ら一篇の建言書を駅逓寮
に呈し、尋で同年五月、自ら費を抛ちて東京に上り、

島 密 氏に面会して親しく府中新村に置局の議請願せ
しが、遂に当局の評議を得て翌十五年十月十日開設せら
れ、府中新郵便取扱所と称し、明治二十三年四月一日、府
中郵便局と改称、昭和六十二年十一月十六日、日高府中
郵便局となる」 

という記録があり、当初の位置は府中新村にあったが、明
治三十四年五月三十日に府市場村五四番地に、その後移
転し現在地に至りました。
当時の郵便料金は葉書が1銭、書状が2銭という記録が残
っています。

村の有力者の努力が実って開設されされた局は、土地や
局舎も運営に必要な用品も提供を受け、その代わりに局
長職の世襲制度を保証してきました。
これら全国の特定郵便局の局長が「全国特定郵便局長会
(全特)」という組織を通じて、自民党への選挙支援と圧力
を通じて特権的地位を確保してきました。
これが
泣く子も黙る全特18,000局で、これも「郵政改革
」によって名を変え、かっての力は無くなりました。

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