文学・歴史

2009年11月 5日 (木)

日めくり万葉集 田道間守 中嶋神社

日めくり万葉集

NHK平日朝5時から5分間の放送です。
今から千数百年昔に詠まれた「万葉集」の歌4500の中から、
「一日一首」、さまざまな分野で活躍する人達が「わが心の
万葉集」として一首を選び、歌への熱い思いを語っていて、
たまたま今日11月5日(木)第209回は、菓子研究家  太田達
さんが我が但馬に縁のある歌を紹介していました。   
   
大伴家持  (巻18・4111) 

かけまくも あやに畏し 天皇の 神の大御代に 田道間守
常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの 香の菓実
を畏くも残したまへれ (抜粋)

   
『口にかけていうのもまことおそれ多いことだが 天皇の御
先祖の神の時代に田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の
国に渡って行き多くの苗木を持って参上した時に その「時
じくのかくの木の実」をかしこくも後の世にお残しになった』

田道間守(たじまもり)を祭った中嶋神社(豊岡市三宅)
Photo_4  Photo_7  1
●お菓子の神様、田道間守命をまつる
菓祖、田道間守命(たじまもりのみこと)がまつられている。
田道間守は天日槍の子孫、三宅連(みやけのむらじ)らの祖
先で、垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえる
ことのできる実、その時節でなくてもいつでもある香り高い果
物(橘)を探し求める旅に出ました。
荒海を渡りようやく命がけで橘の実を手に入れることができ
、日本へ帰ってきましたが、天皇は崩御の後で、悲しみ嘆い
た田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてし
まいました。
忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮
かぶ小さな島にひっそりと祀られています。
また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国
のお菓子のはじまりとされ、田道間守の故郷、中嶋神社に祀
られています。
本殿は国指定重要文化財で、建造年代は1428年、屋根を側
面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている二間
流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝え
ています。                   (但馬の百科事典)            

旧制豊岡中学とともに豊岡高校の前身で、いまから100年前
に創立された豊岡高等女学校校歌三番に・・
♪香具(かぐ)の菓(きのみ)のふる事の縁(ゆかり)も深きた
ちばなの・・♪
と歌われています。
また、毎年4月の第3日曜日には菓子まつりが催され、全国の
菓子業者をはじめ近隣の人たちで賑わいます。
地元の人にも案外知られていない神社ですが、万葉集編者
と言われる大伴家持の歌に登場していると知りました。 
 

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2009年10月 7日 (水)

齋藤隆夫 「遺墨・遺品」資料展

今年は但馬が生んだ反骨の政治家斉藤隆夫が亡くなって
60年、今日7日が命日にあたります。
伊佐屋三木のblog 反骨の政治家 齋藤隆夫 ↓
http://izayamiki.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-0004.html
(財)齋藤隆夫顕彰会主催で、豊岡市や市教育委員会の
後援を受けて「遺墨・遺品」資料展が開かれています。
遺墨では、直筆の軸・額・色紙が相当数残されているのと、
遺品では、当時の新聞や演説に感動した国民からの手紙、
国会の除名通知などが展示してあります。

資料展パンフ ↓
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「齋藤隆夫 渾身の演説 我が言は万人の声」
某TV局の番組の映像です。
時代背景をもとに、史実に基づき編集されていて、隆夫の
肉声が残されていたレコード盤から聞けます。<42分>
http://video.google.co.jp/videoplay?docid=-6299933364322269110#

この番組の最後に隆夫の漢詩が紹介されています。

我言即是万人声(我が言は、即ちこれ万人の声)
褒誉委世評(褒誉は、世評に委ぬ)
請看百年青史上(請う看よ百年青史の上)
正邪曲直自分明(正邪曲直、自ずから分明)

国府地区堀区公民館の額 ↓
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昭和巳丑年は、昭和24年 隆夫の亡くなった年ですが、シン
プルな字句ですね。
 
 

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2009年8月18日 (火)

ブログで伝える戦争体験

ブログを書くようになって2年半が過ぎ、一年分を纏めた
本も2冊になりました。

伊佐屋三木のblog [伊佐屋三木のblog Vol.2]  
http://izayamiki.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/blogol2-50ba.html

他人のblogも気に入ったものがあると、お気に入りに入
れてたまに覗きますが、芸能人のそれには全く興味があ
りません。
8月は嫌でも戦争のことが話題になりますが、80歳のお
ばあちゃんが、戦争体験を語るブログがあります。

80ばあちゃんの戯れ言 
(聞いてほしくて)
http://blog.goo.ne.jp/fujimi09

戦争の話題とともに、日常生活や昔の思い出が書き込ま
れていて、当時の様子を知ることができます。
「若い人に戦争体験を伝えたい」そんな思いの「おばあち
ゃん」がブログという武器を手に入れたのです。
もちろんパソコンスクールに通って勉強したそうですが、
訪れる人は100人/日程度で、コメントにはすべて返事を
書くと言います。
中年でも簡単ではないパソコンを学ぶという執念と、伝え
たいという強い意志にただただ頭が下がります。
同じ「ブロガー」で「戦争を知らない大人」として、今後もウ
オッチしていきたいと思います。
 

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2009年8月16日 (日)

終戦か敗戦か

8月15日は「終戦記念日」として、戦没者追悼式が開催
されます。
夏の甲子園でも、プレーを中断して犠牲者を悼み、黙祷
を捧げます。
もはや戦争は「現実」から「歴史」になりつつあります。
思うに「終戦」と「敗戦」の呼び方があるのですが、政府と
して「終戦」と呼んでいます。
最近はマスコミも含めて、この考えが定着しつつあるよう
ですが、歴史を考えると、すこし違和感があります。
「終戦」と「敗戦」は、当然使い分けるべきで、天皇がポツ
ダム宣言の受諾を命令し、戦争の終結を指示したことは
「敗戦」が正しいのではないでしょうか?
伊佐屋三木のblog内検索で、「終戦」という言葉が出るの
は今日の記事しかありません。

天皇の玉音放送全文(声も聞けます) 

http://namaste32.tripod.com/syusen.html

8月15日を終戦日とし、「敗戦」と呼ぶにふさわしいのは、
9月2日にミズリー号ポツダム宣言受諾の降伏文書に調
印した時とする意見もあります。

戦没者追悼式に麻生総理は、アジア諸国への加害責任
を明らかにし、不戦を誓いました。
戦争犠牲者は日本が230万人、中国は1,000万人、次い
でインドネシアの400万人、ベトナムの200万人、フィリピン
の111万人とされていて、攻めた側と攻め込まれて戦場に
なった国の悲惨さを如実に表しています。

呼び名はどちらでもいいようなものですが、他人事にしな
いことが大切で、いま講演などで引っ張りだこになってい
る元空自幹部のように加害責任を言うことを「自虐史観」
だとか、戦争が「アジア解放」に寄与したなどと宣うのは、
空恐ろしい感がします。
この戦争で、真に「解放」されたのは、絶対主義天皇制と
軍国主義に支配されていた日本国民だったのです。
 

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2009年7月15日 (水)

講演会 「考古学から見たアメノヒボコ」

アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書
紀』の神話に登場する神で、『日本書紀』では新羅王子と
されます。
但馬の一宮である出石神社の祭神で、泥海であった但
馬を、円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて
濁流を日本海に流し、肥沃な但馬平野を造った神と伝
えられています。

出石神社 ↓
http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/izushi.htm

ヒボコ伝説は播磨・近江・若狭にも残っていて、この地を
経由して但馬に入ったとされています。

先週の日曜に講演会「考古学から見たアメノヒボコ」が開
かれ、参加してきました。
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・内容  
Ⅰ.「考古学から見たアメノヒボコ-但馬からの視点-」
  瀬戸谷 晧氏(豊岡市出土文化財管理センター所長)
Ⅱ.「考古学から見たアメノヒボコ-播磨からの視点-」
  亀田 修一氏(岡山理科大学教授)
講演会後、考古博物館長 石野博信氏を交えた対談を行
なわれました。

亀田先生は渡来文化特に朝鮮半島関連の第一人者とし
て、播磨各地に残っている渡来文化の痕跡を中心に話さ
れました。
瀬戸谷先生は教育委員会で考古学研究が長く、但馬の
遺跡遺構の権威で、但馬各地に残されている人名・地名
・遺跡に残された石室や埋葬品などに渡来文化の影響が
 残っていることを話されました。

亀田教授 ↓          瀨戸谷所長 
P1000617 P1000623
このことから但馬各地に弥生・古墳時代に朝鮮半島から
何らかの理由で日本に渡来した集団があり、それが「ア
メノヒボコ」伝説となったことが推測できました。

古事記にはヒボコが日本に渡った理由として、『奢り高ぶ
ったヒボコが、美麗しい妻を罵ったので、「私はあなたの
妻にはふさわしくありません。親の国に帰ります」と言って
小舟に乗って難波の津に逃げてしまったのを反省したヒ
ボコが妻を追って日本へ来た』と書かれています。
今の家庭内暴力・DVが古事記に書かれていて、アメノヒ
ボコが元祖だったのと、勇気ある妻の決断がおもしろい
ですね。
  

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2009年6月23日 (火)

高杉晋作から学ぶ

高杉晋作は労咳(肺結核)を患い、下関市桜山で療養生
活を余儀なくされ、慶応3年(1867年)江戸幕府の終了を
確信しながらも大政奉還の前年に27歳の若さで亡くなり
ます。
      Photo_4
亡くなる前に、 明治維新革命で命を落とした戦死者を
弔うために、慶応元年(1865)8月6日桜山に招魂場を
落成させ、
『弔わる人に入るべき身なりしに 弔う人となるぞ恥ずか
し』
と詠みます。

この招魂場は、吉田松陰から、十代・二十代の名もない
若者いたるまで、396柱が等しく祀られています。
中央の松蔭の碑が少し高いだけで、奇兵隊の精神を象
徴するがごとく、高杉を初め農民・小者すべてが同じ高さ
になっていて、身分制度を越えた新しい時代への理念を
伝えています。
        Sakurayama2_4
下関市吉田にある高杉の墓碑には、伊藤博文が、
『動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし、衆目駭然
(がいぜん)敢えて正視する者なし・・・・』
記します。

そして、高杉辞世の句と言われているのが・・
『おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心
なりけり』(下の句は歌人望東尼)

今回の「劇団 はぐるま座 公演」を機会に、高杉晋作の
思想と行動の一端を勉強させてもらいました。
  

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2009年6月20日 (土)

桜桃忌 青春文庫

昨日19日は作家太宰治の生誕100年にあたります。
愛人と入水自殺をして遺体が見つかったのが誕生日で、
命日として「桜桃忌」と呼ばれます。

津軽の大地主の六男として生まれ、学生時代に左翼運
動に傾倒したが脱落し、その後小説家として数々の名作
を生みました。
独特の作風から「退廃派」と呼ばれ、その結末とともに印
象に残る作家です。

「桜桃忌」と呼ぶのは、桜桃(サクランボ)のなる時期とい
うより、短編「桜桃」から採られたものです。
通常は名前をとって○○忌とするのですが、司馬遼太郎
の「菜の花忌」とともに有名です。

青春文庫とは、インターネット電子図書館のことで、著作
権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」
とされたものを、テキストとHTML形式で公開したものです。
「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」の著作権が
切れた数々の名作を無料で読むことができます。

「青春文庫」↓
http://www.aozora.gr.jp/
太宰の短編「桜桃」もここからダウンロードできます。
(HTML形式がそのまま読めて、便利です) 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card308.html

今日20日には「太宰治検定」も行われます。 
http://blog.canpan.info/dazaikentei/
 
 

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2009年6月14日 (日)

養父市「伊佐新田開発」 Ⅳ

質草として取り上げた土地を集積して、旧所有者に耕作さ
せ、年貢を収集するのと、これで得た資金を投じて新田開
発を行いさらに財をなすという構図です。
新田開発に成功した商人達は、土地を小作人に預け、米
や麦・大豆を作らせ、年貢や諸経費を差し引いた残りを出
資割合に応じて配分するという寄生地主制が進みました。
寄生地主制の成立とともに、小作農への転落が進み但馬
は県下でも屈指の大地主が存在したといいます。

商人の土地支配進む一方、藩札発行の札元となるものも
あり、竜野屋は手辺の札場を預かっていました。
そういえば、以前郷土史家で藩札を調べられていた豊田
先生から、「龍野屋」と刷られている酒札を見せて頂いた
ことがあります。

ところが、藩主小出家が後継が途絶え断絶となった時、
領内に鬱積していた不満が暴動となって一揆が始まりまし
た。
藩札を発行していた「札元」への銀引き替えの要求による
「うちこわし」、土地を取り上げられた農民による新田地主
への帳面の引き渡しが求められました。
札元竜野屋も襲われて打ち壊され、安良村の出作も襲わ
れています。
この時多くの札元と新田地主が襲われたのは、藩権力を
背景にして農民達を支配してきたことへの恨みが爆発し
たものです。

この結末は、藩を一時的に預かった代官の処置により
一時的に年貢が下げられたりしたが、打ち壊しにあった
札元や新田地主の訴えが取りいれられて、一揆の中心
人物が捕らえられ牢に入れられました。
その後の凶作時には年貢の減免がなされたりして、藩
の施策にも一定の影響を与えたようです。

17世後半からの土地の集積・富の蓄積・藩の商人保護
小作農の増加・重税の苦しみからの一揆そしてご先祖様
の「所業」など、伊佐新田開発を機にいろいろなことを学
ぶことができました。 
 

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2009年6月13日 (土)

養父市「伊佐新田開発」 Ⅲ

新田開発の申請に浅間・宿南両村の意見を聞いたところ
牛飼場がなくなること洪水の時に水がくる等を理由として
反対であったが、藩の年貢増収を理由に押し切られたよ
うです。
開発を許された我が先祖竜野屋宗輔と春田休也は資金
を出し合い、工事にかかりましたが、水を取りいれる堰や
水路の位置も悪く、難工事が続き資金も続かず中断を余
儀なくされました。
竜野屋宗輔も病気になり、脱落することになりました。

その後、出資者を募り工事が再開され、難航しつつも、
10年余を費やして完成させ、新伊佐村が成立しました。

『伊佐新田の開発をあきらめた竜野屋宗輔は、のちに
出石郡安良村に新田を開いたようだ。また鉄屋十兵衛
というものも出石郡香住村に沢新田とよばれた新田を
開いている』
この期の新田開発は農民のものだった土地を、新田を
開くことで開発者に与えたため、農民の反感を買い、藩
政が乱れた時、領民一揆となってこれら商人への打ち
壊わしに繋がっていきます。

ところで我が先祖の話ですが、『竜野屋宗輔は姓を三木
といい、小出侯が播州竜野の領主であったときからの御
用商人で、同侯の出石移封に随従してきた」』書かれて
います。
どうやら、播州龍野の出身で、お殿様の国替えとともに
領地である国府手辺に移り住み、札元として藩の御用
を務める一方、土着していったものと思われます。
 

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2009年6月12日 (金)

養父市「伊佐新田開発」 Ⅱ

江戸時代17世紀後半の寛文九年に、円山川右岸沿いの
旧宿南村伊佐村で、我が家の先祖「竜野屋宗輔」と出石
の「春田次郎兵衛」の両名が、出石藩に新田開発を願い
出て、開発が許可されたことは以前お話ししました。

伊佐屋三木のblog「伊佐新田開発」 Ⅰ 
http://izayamiki.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-3cf7.html

但馬史4巻によると・・
『幕藩体制の基礎もかたまり、恒久的な太平の世の夢が開
き始めたころの17世紀後半になると、但馬の農村にも新し
い経済の動きが波打ちはじめ、農村の様相は次第に変化
してきた。』(中略)
『流通経済の浸透にともなう土地異動であると考える。金を
持つもののところに土地が集まる一方、中世的な勢力の
持続のうえに安住してきた旧支配層が、急速に土地を失っ
て没落するのである』

金を持つものといえば商人で、土地を担保に金を貸し、返
せない時は自分のものとして所有することで、町人による
土地支配が進み、相当な面積にのぼったようです。
現在の豊岡市神美地区三宅村の半分、森尾村の2割、香
住村の3分の1が出石・豊岡の町人(村外者)の支配地と
なりました。

この財力を背景に新田開発に投資し、新たに農地を所有
するという積極的な行動に出ています。
 

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2009年6月 3日 (水)

養父市「伊佐新田開発」 Ⅰ

養父市発行の「広報やぶ」4月号の記事に気になる記事が
ありました。
「町の文化財」の紹介で、「伊佐新田開発」を載せています。
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場所は円山川右岸沿いの旧宿南村、時は江戸時代17世
紀後半の寛文九年に、我が家の先祖「竜野屋宗輔」と出
石の「春田次郎兵衛」の両名が、出石藩に新田開発を願
い出て、開発が許可されたのが発端です。
八鹿町史上巻281ページと、但馬史第4巻51ページに「新田
発に乗り出す商人」として記載があります。

そもそも新田開発などは出石藩の責任に於いておこなわれ
公共事業の最たるものですが、これを商人が願い出て、藩
もこれを認める時代背景があったものと思われます。
当時の伊佐地区は、浅間・宿南両村の入り組み地で、円山
川沿いは広い原野になっていて、牛が放牧されていました。

結果としていまは肥沃な水田となっていますが、江戸時代か
らから何度も失敗を繰りかえしながら取り組んだ先人の労苦
の上に、築かれたことを碑を建てて顕彰しています。
Img_1491  Img_1495 
この事業における我が先祖の関与と開発が成功するまでの
苦労話は、但馬史と八鹿史から引用して以後紹介します。
 

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2009年3月22日 (日)

教祖の御教

彼岸にかけて嫁さんの実家の法事に行ってきました。
場所は岡山県の和気町で、兵庫の県境に近い所です。
家業は金光教の働(かせぎ)協会を努めていて、4年前に
亡くなった義父の5年祭が執り行われました。

ご神前              奥津城(お墓)
Img_7110 Img_7096

金光教祖の御教
Img_7112
もっともなことを分かりやすく書いてあります。
金光教(こんこうきょう)は「取次の宗教」と言われます。
教祖金光大神(こんこうだいじん)が家業をやめ、一切の
生活を神である天地金乃神に捧げ、人々の願いを神に
取り次ぎ、神の願いを人々に取り次いだことに始まると
されます。
 


 

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2008年11月24日 (月)

福井市 一乗谷朝倉氏遺跡

越前朝倉氏一乗谷遺跡を訪れました。
養父市八鹿町に「朝倉」という地名がありますが、ここが
越前の大名朝倉氏発祥の地です。
養父郡の一豪族でしたが、主家に従って越前に入国し、
抗争の中で、越前一国を支配する戦国大名として、権勢
をふるいました。
歴史ドラマでもお馴染みのように11代当主義景の時、織
田信長によって滅ぼされてしまいました。
Img_5871_3 
福井市南東一乗谷は、越前の中心として繁栄しましたが
朝倉氏滅亡の際に焼き討ちにあい、灰になってしまいまし
た。
資料によると・・・・
<400年以上もそっくり埋もれて残ってきた日本のポンペイ
 それが戦国大名朝倉氏の城下町遺跡です。
 昭和46年278haが国の特別史跡に指定され、史跡公園と
 して発掘調査と整備が、現在も進められています。
 また、平成3年には諏訪館跡庭園をはじめ4庭園が特別
 名勝に指定されました。
 遺跡は、一乗谷の狭い谷間に広がっており、朝倉氏の館
 群をはじめ、家臣の武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋
 が、計画的に作られた道路の両側に所狭しと並んでいた
 ことが発掘調査で明らかとなっています。
 また、東の山上には、福井市全域を一望で
 きる山城「一乗谷城」が築かれ、城下を守っています。>


ボランティアガイド岡田さんの案内で見学しましたが、郷土
の誇る遺跡にかける熱い思いと博識には驚かされました。
朝倉氏のルーツを尋ねて、八鹿町にも2回訪れて郷土史家
宿南保先生とも面識があると仰っていました。
次に東尋坊観光が控えていて、時間が充分に取れなかった
のが残念なくらい立派な遺跡でした。

(社)朝倉氏遺跡保存協会のホームページ 
http://www3.fctv.ne.jp/~asakura

(石垣、土塁、礎石、堀切跡が残っています 

Img_5872 Img_5877
(武家屋敷と町屋再現  ↓ 
Img_5874_2 Img_5890_3
(朝倉家家紋 三盛木瓜(もっこう)と山城一乗谷城址
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(見事な紅葉とボランティアガイドの岡田さん 
Img_5879_2 Img_5880_2   
代々の朝倉氏と領民が100余年をかけて作り上げた城下
町が、数日間の戦闘で灰燼に帰し、400年も経ってから遺
跡復原が始まり、いま数十年の歴史を刻んでいるという時
間の重みを感じさせられます。

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2008年10月25日 (土)

小山 譲 秋の作品展のご紹介

煉瓦建築や地方の風景画を得意とする癒し系の画家で上
郷在住の画家、小山 譲 君の個展が開催されます。
彼とは幼稚園から高校までの同級生で、このブログからも
ホームページが見られます。

(アトリエ 小山のホームページ )
http://www.mimir.ne.jp/~atorie_k/index.htm

秋の作品展は、自宅アトリエで
10月31日(金)~5日(水)までの6日間開催されます。
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彼には運転免許がなく、ましてや運転手もいないのでチ
ャリンコで、長い髪をなびかせ走り回っています。
当地ではお年寄りか生徒は自転車に乗りますが、大人
の姿を見ることがないので、結構目立つ存在です。

作品も近場が多かったので、「フットワークが悪い」「モチ
ーフに広がりが欠ける」と悪口を言っていたところ、今回
は、奈良・京都、北海道から信州まで広がりました。
個展と言っても構える必要もなく、気楽な雰囲気なのと但
馬人の懐にあったパステル画を多く展示しています。

同窓会代わりや秋の行楽に出かけたついでに、もっとす
ごいのはコーヒー狙いの喫茶目的に来る人もいます。
それでも、人が良くてA(C)の彼は優しく迎えてくれます。
ギャラリーの雰囲気も写真のように、江戸時代前期に建て
られた自宅を改造して使っていて、幅60センチ超の梁が
貫いています。
これは一見の価値有りです。
すぐ後の禅寺・頼光寺の裏山には、冒険家植村直己さん
のお墓があり、すこし早い紅葉と国府の町並みの景色も
楽しめます。
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アトリエ小山の場所は 彼のホームページの地図か 
「map.jpg」をダウンロード を参考にして下さい。
 

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2008年9月 8日 (月)

日露戦争 坂の上の雲 スペシャルドラマ

日露戦争と言えば、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」が
知られます。
文庫本でも8冊に渡る長編ですが、長さを感じさせないお
もしろさで一気に読んでしまいます。
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主人公はいずれも伊予松山の出身の三人、一人は騎兵
旅団を指揮して日露の各会戦を闘った秋山好古
その弟で連合艦隊参謀として、日本海海戦でロシアバル
チック艦隊を破って戦争の勝利を決定づけた秋山真之
そして、野球の名付け親としても知られ、病魔と闘いなが
らも俳諧の革新に挑んだ、近代俳句の祖正岡子規です。

以前道後温泉に泊まったとき、早朝散歩で偶然に秋山好
古の墓を発見したこともありました。

この小説をNHKが21世紀スペシャルドラマとして、2009年
秋の放映を目指し、撮影を始めています。

「坂の上の雲」の情報満載 「坂の上の雲」マニアックス
 
のホームページ ↓ へどうぞ!
http://www.z-flag.jp/

ドラマについては同じく ↓ をご覧ください
http://www.z-flag.jp/sakakumo/drama.html

ロケも松山・東京はもちろんのこと、ロシア・中国・欧州で
3年をかけて製作するという大河ドラマの上を行くスケール
の大きさです。
キャストはそれぞれ阿部寛・本木雅弘・香川照之がつとめ
90分枠で2010年まで、全13回の放送予定です。

登場人物を英雄視したり、神格化する傾向や戦争史観等
異論もあるでしょうが、好きな小説だけに、1年後の放送開
始が待たれます。

5日のナツメから始まった日露戦争に関連する話題は、今
日でおしまいです。






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2008年9月 7日 (日)

日露戦争 明治三十七八年戦役 しりとり歌

日露戦争というのは国際法上での名称です。
昔は、「明治三十七八年戦役」と言っていました。
日清戦争も同様で、国内では「明治二十七八年戦役」と
言いました。
太平洋戦争を未だに「大東亜戦争」などとのたまうのと同
じです。

我が家の近くに齊吉さんという大工のお爺さんが住んでい
て、私たち子供を集めて、日露戦争のしりとり歌をよく歌っ
てくれました。
今でも覚えていて、思うに相手を貶めることで、わが民族
の優位性と戦意の昂揚を狙ったものでしょう。

「陸軍の乃木さんが凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、
クロパトキン、金玉、マカローフ、ふんどし締めた、高シ
ャッポのポン屋売り、陸軍の…」
と繰り返し続きます。

クロパトキンは、帝政ロシアの陸軍大臣で日露戦争時
ロシア満州軍総司令官。
遼陽・沙河・黒溝台・奉天の会戦での満州軍総司令官
大山巌元帥率いる日本陸軍との闘いは、司馬遼太郎の
「坂の上の雲」で述べられています。
マカロフは帝政ロシアの海軍中将、旅順艦隊司令官で、
旅順で日本軍の機雷で戦死>

私の住む国府地区では、記録によると124名が出征し
4人が戦病死したとあります。
府中小学校には、いまだに凱旋記念の石柱が残ってい
ます。
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拡大すると、明治三十七八年戦役 がわかりますね。
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私の大叔父で、旧制豊岡中学校二期生の三木彌市氏の
名も先頭に刻まれています。
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2008年9月 6日 (土)

ナツメの木 日露戦争 水師営の会見

ナツメは中国から日本に伝えられたのですが、「日本の柿
と同じくらい中国では家の庭に植えられている」「食べ物に
も薬にもなるので中国人は大事にしていた」、日中戦争の
頃、青島や済南・開封で日中貿易の商社で働いていた父
が話していました。
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そういえば、日露戦争で旅順を攻略し、降伏の会見が行わ
れた場所の百姓家にも、なつめが植えられていました。
唱歌「水師営の会見」にはこう唱われています。
 
♪旅順開城 約成りて
 敵の将軍 ステッセル
 乃木大将と 会見に
 所はいずこ 水師営
 庭に一本(ひともと) 棗(ナツメ)の木
 弾丸あとも いちじるく
 くずれ残れる 民家(みんおく)に
 今ぞ相見る 二将軍 ♪

(唱歌「水師営の会見」は YouTube で 聞けます
http://jp.youtube.com/watch?v=WVVS56hWx30

♪昨日(きのう)の敵は 今日の友
 語ることばも うちとけて
 我はたたえつ かの防備
 かれは称えつ わが武勇♪

昭和の軍歌は、勇ましくて、敵をやっつけること重視です
が、この頃はのどかで、武士道精神もあったのですね。
日清、日露で大国に勝ったことで、軍部や国民に錯覚が
生まれ、軍国主義と精神第一主義による滅びの道を突
き進むことになりました。

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2008年8月28日 (木)

証言記録 兵士たちの戦争

・2011年に地上アナログ放送が終了してしまう。
・2011年に家のテレビ2台を同時に換えるのは大変。
・地デジの受信が日高町でも11月に可能になる。
・ハイビジョン番組はとても綺麗。
・デジタル放送は、いろいろな情報がとれる。

こんなアメとムチの宣伝に乗せられて、居間を薄型テレビに
換えました。
今のところ、デジタル番組はBSだけですが、地上波の番組
をニュース番組以外、ほとんど見なくなりました。
もともと、バラエティ番組が嫌いで、BSハイビジョンの得意分
野である自然・風景・紀行・ドキュメントを楽しんでいます。

今週は「シリーズ 証言 兵士達の戦争」でに嵌りました。

<シリーズ 証言記録 兵士たちの戦争>

「無数の人命を奪い国土の多くを灰燼に帰したアジア・太
平洋戦争。
その敗戦から60年あまり、戦場体験を持つ元日本兵は大
半が80歳を越えています。
この番組は、高齢化が進む元兵士の証言を、NHKの全国
の放送局で収集し記録するシリーズ番組です。」

BShi で、これまでに放送した「証言記録 兵士たちの戦争」
を 8月26日(火)~8月29日(金)までに再放送しています。

8月26日(火)午後8:00~8:43
インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘~新潟県高田・陸
軍歩兵第58連隊~(2008年7月28日放送)

8月26日(火)午後9:00~9:43
フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦~陸軍第1師団
(2008年2月28日放送)

8月27日(水)午後8:00~8:43
ガダルカナル 繰り返された白兵突撃(2008年3月26日放
送)

8月27日(水)午後9:00~9:43
沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場~山形県・歩兵第
32連隊(2008年4月30日放送)

8月28日(木)午後8:00~8:43
ペリリュー島 終わりなき持久戦~茨城県・水戸歩兵第2
連隊(2008年5月26日放送)

8月28日(木)午後9:00~9:43
ニューギニア ビアク島 幻の絶対国防圏~陸軍歩兵第
222連隊(2008年6月30日放送)

8月29日(金)午後8:00~8:43
フィリピン 絶望の市街戦~マニラ海軍防衛隊(2008年1
月24日放送)

それぞれ、昭和史や戦争記録で概略は知っていましたが
生き残った兵士の証言のリアルさと重さは相当なものです。

私の家でも、日中戦争の最中13年と14年に、伯父と叔父
の二人を中国大陸で失いました。
戦死も初期だったことで、地区を挙げての慰霊を受け、祖父
母は靖国の父と母として、神社参拝に招かれています。
遺稿を読んでも家族への思いや感謝、職務完遂の決意など
で、「本音」を知ることは出来ません。

敗戦後63年、戦場体験者は80歳を超える人ばかり、いま証
言するのは「傷が癒えたから」だけではなく、「知って欲しい、
伝えたい」という強い思いが感じられます。

夏は、戦争の現実と愚かさを知り、犠牲者を悼み、平和の誓
いを新たにする季節と心しています。

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2008年8月 2日 (土)

僧 月性 壁に題す

NHK大河ドラマ「篤姫」が人気ですが、かくいう私も毎週
欠かさず見ています。
チャンスは日曜は、午後6時(ハイビジョン)・八時(総合)
10時(BS)、翌週土曜1時過ぎ(総合再放送)と4回。

先週は大老井伊による安政の大粛正に追われる西郷と
勤王僧 月照が取り上げられました。
この月照は、幕府の勤王狩りに追われて、西郷と共に錦
江湾に入水自殺し、亡くなったが、西郷は奇跡的に一命
を取り留めました。
同一人物と勘違いしていましたが、もう一人月性がいて
こちらの月性には若い頃思い出があります。
島根大学に入った昭和41年頃、一年先輩のYさんが近
くの丘で毎日大声で吟じていたのが、月性の漢詩。
将東遊題壁(将まさに東遊とうゆうせんとして壁に題す)

男児立志出郷関 
学若無成不復還 
埋骨何期墳墓地 
人間到処有青山

男児(だんじ)志(こころざし)を立てて郷関を出づ
学、もし成るなくんば、また還らず
骨を埋(うず)む、何ぞ期せん墳墓(ふんぼ)の地
人間(じんかん)到る処(ところ)青山(せいざん)あり

故郷を後にして学ぶ志に対して深い感動を覚えました。
夜9時を過ぎると轟くYさんの吟声に、近所から苦情が出
るくらいでしたが、なぜか彼はこの詩だけを吟じました。
バンカラ好きで、学生服に破帽高歯・無精髭をのばし、破
れ帽を被り、足駄を履き、そして腰には手ぬぐいを下げて
歩いていました。
そんな彼が、学成り職を求めたのがなんと私学の女子高
校の化学教師だったのは、サプライズでした。

詩吟では、次の読み方だったと思います。

「男子志を立て、郷関を出ず
学もし成らずんば死すとも帰らず。
骨をうずむ豈ただ 墳墓の地のみならんや
人間いたる処青山あり」

送別の宴などで、よく吟じられる詩のようですが、このような
気概を持つ人はなくなりました。

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2008年8月 1日 (金)

青葉の笛 「花や今宵」の歌

唱歌「青葉の笛」の歌詞一番は、平敦盛でしたが、二番は
高名な歌人でもあり、一の谷の戦で討ち取られた、清盛の
異母弟、平忠度の「花や今宵」の歌がテーマです。

平家が都落ちした時、忠度は途中で京都に引き返し、師
で<千載集>の編者である藤原俊成にこの歌を託したこ
とを言います。

【行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の あるじ
ならまし (忠度)】

討ち取った武将は忠度と知らなかったのですが、矢を入れ
る箙(えびら)に結び付けてあった歌をみて忠度と知ったの
です。

♪ 更くる夜半に 門をたたき
   わが師に託せし 言の葉あわれ
    いまはの際まで 持ちし箙(えびら)に
   残れるは 花や今宵の歌 ♪

話は変わりますが、後世になって忠度はよく知られます。
名を「ただのり」と読み、官名が「薩摩守」であったことで、
無賃乗車(ただ乗り)のことを 「薩摩守を決め込む」 と
言われるようになりました。
このたとえは少し知恵がいりますが、煙管(キセル)もな
かなか洒落ていますね。

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