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愛犬ハル

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    16年我が家の家族として、楽しませてくれた「晋平」が2005年 3月息を引き取りました。 代わりに今度は女の子を購入しましたが、恐がりで人になつか ないのが困りものです。 春に来たからハルと名付けましたが、血統書付きで本名は 「文美姫号」です。

青春

2015年5月14日 (木)

旧制豊岡中学校 楽々浦6学徒殉難70年

戦後70年の節目の年を迎え、歴史の検証がいろいろな立場で行われています。
「憲法9条に定めるところは、戦争に明け暮れた国民の被害体験と、アジア諸国民への深刻な加害への反省から、どんなかたちでももう戦争はしない」という決意であり、国民は「これでもう殺し合うことはない」と安堵したはずでした。

安倍政権は従来の専守防衛から、集団安保体制に大転換する法案の国会提出を決めました。
法案には「平和」という名がついていますが、アメリカが世界で引き起こすあらゆる戦争に自衛隊が参戦・軍事支援できるようにするためのいわゆる「戦争」法案にほかなりません。
法案の中味もさることながら新法以外の関連10法案を一括審議するなど、やり方も強引で今国会成立への異常ともいえる執念が感じられます。

そんな2015年5月14日ですが、70年前の1945年5月14日、旧制豊岡中学校生徒が学徒動員の作業を終えた帰路で事故に遭い6人が亡くなりました。
同級生らでつくる「楽々浦殉難六学徒追悼の会」が毎年追悼行事を行っていらっしゃいますが、それぞれ85歳とお歳を召されています。
学制改革で豊岡高校となった敷地にある同窓会組織「達徳会館」に、追悼碑の写真と碑文の写しを額に入れ、預けられています。

伊佐屋三木のblog  「旧制豊岡中学校 楽々浦学徒殉難6学徒」 をどうぞ
 (クリックで記事に移動し、戻るボタン(←)でもとに戻れます)

学徒動員の最中で、戦争の犠牲が若い中学生にまで及びました。
自由で青春を謳歌できた自分の高校時代と比べ、平和な時代を知ることなく、この世を去った生徒たちの無念さを思うと、改めて平和の大切さを考えさせられます。

2015年1月25日 (日)

学校給食週間に寄せて 完全給食編

3年前の「伊佐屋三木のblog」の「完全給食編」を再録します。
 
 
昭和36年の給食センターの完成で、小・中学校が隣接していた府中校区で完全給食が始まりました。
府中中学校校舎           中学校全景と校歌
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(小山譲 画)
カレーシチュー・けんちん汁・鯨の竜田揚げなどが人気メニューでした。
男の子はさっさとおかずと汁を済ませ、残ったパンをポケットに入れて、体育館や運動場で遊んだものでした。
アメリカからの援助は、米食中心の日本人をパン食に慣れさせて 、米国の小麦の輸出を図る狙いがありました。
米に較べて作りにくい小麦から作るパンを食べる習慣ができ、我が国の自給率がどんどん落ちたのを見ると、学校給食を通じて日本人の食生活を欧風化・小麦化する狙いは見事に成功しました。
その後学校給食にご飯が取りいれられたのは昭和51年それから徐々に増え、豊岡市では平成21年から5日間すべてがご飯に替わっているそうです。
ほとんど輸入に頼る小麦から、100%自給が可能な米に切り替えるのになんと時間がかかったことでしょう。
 
 

2015年1月24日 (土)

学校給食週間に寄せて ミルク給食編

今日は学校給食記念日。
当時学校で一番楽しみと言えば、給食(弁当)と体育の時間でした。
3年前の「伊佐屋三木のblog」の「ミルク給食編」を再録します。
 
本格的な給食が始まったのは中学生になってからで、昭和33年小学4年生の時「ミルク給食」が開始されました。
「ミルク給食」とは、弁当は持参し補助としてミルクのみ提供されました。
ミルクといっても 牛乳ではなく、戦勝国であるアメリカの援助物資「脱脂粉乳」をお湯で溶いたものでした。
いまのスキムミルクとは全く異なり、長い船旅もあってか、独特な匂いがして空腹でも喜んで飲む子はなく、これに希望者のみ「肝油」を斡旋して栄養を補っていました。
 
あとでガリオア・エロア基金やララ物資という言葉を知りましたが、かの国でバターやチーズに使う乳脂肪分を取り除き水分を除いて粉にしたもので、大きな紙製ドラム缶に入れられて蓋や側面に英語で文字が書いてありました。
アメリ本国では牛の餌だったと言う話しもありましたが、日本流に置き換えれば、「豆腐を作ったあとのおからを無料であげる」というに似ています。
グランド・中学校・体育館     グランドにフ中の人文字
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(小山譲 画)            (S31年航空写真)
給食が、主食・ミルク及びおかずを揃えた「完全給食」となったのは、中学生になって校内に給食室が完成してからでした。
 
 

2015年1月23日 (金)

学校給食週間に寄せて 弁当編

明日から学校給食週間、24日は記念日だそうです。

いまでは当たり前のこととなりましたが、団塊世代の私にとって給食には一杯思い出があります。
当時学校で一番楽しみと言えば、給食(弁当)と体育の時間でした。
3年前の「伊佐屋三木のblog」の給食関連3連発を再録します。
 
太平洋戦争敗戦後の昭和22年の生まれで、小学校入学は昭和29年、昭和35年の卒業までの6年間の弁当と給食の思い出です。
府中小学校正門           教室から大岡山  
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             (小山譲 画)
給食が開始されるまでは弁当持参で、アルマイト製の弁当箱に独立したおかず箱とご飯が詰められていました。
お茶は弁当の蓋に入れてもらって、斜めに傾けて角から上手に飲んでいました。
普段はそのままいただくのですが、但馬の冬は厳しく冷たいまま食べさせるわけにはいかないと、ダルマストーブの上に四角い大きな缶を乗せ、底に水を入れ蒸気で蒸して加温していました。
登校して石炭ストーブに火が付くと、弁当箱を順に缶に並べて積み上げるのが当番の仕事でした。
お昼前になり、缶の蓋を開けると温められた弁当からたくあんの香りが辺り一面に広がったのを覚えています。
 
昭和30年代はまだまだ物も少なく、貧しい時期だったと思うのですが、田舎でもあり米や野菜を自給しており、親の苦労はわかりませんが、ひもじいという思いはありませんでした。
希に母親の都合で、弁当の替わりに向かいの八代商店でパンを買って持参することがありましたが、周りから羨まれたりしてちょっぴり嬉しくもありました。
昭和29年に「学校給食法」が制定され、小4でミルク給食の開始、中1で完全給食が実施されたことで、遠足や運動会以外は無くなりました。
 
 

2015年1月12日 (月)

成人式いろいろ

成人を祝う日「成人の日」が制定されたのが1948年(昭和23年)だそうで、当時は1月15日、2000年(平成12年)からハッピーマンデー制度が導入され1月第2月曜日に代わりました。

但馬の市町では、大学や就職で域外に出ている成人の便宜を図るため、前日の日曜日に開催されるようになりました。
成人式も学年単位が定着し、実態は卒業後最初に行う同窓会と変わりました。
庭のロウバイ
20150113_091903 合併前の旧日高町のときは、1月は雪が多くスキー場のかきいれ時と重なるため、11月3日に行われていました。
娘2人は大学生だったので、それぞれこの日に帰郷して出席しました。
「親のすね囓りの分際で振り袖は許さない。一張羅のスーツで出席しなさい」との頑固親父の一喝で、娘1はスーツで出席しました。
後で写真を見るとスーツは100人超の女子の中で2~3人、少しかわいそうな気もしましたが、かえって目だってよかったかも知れません。
「一生に一度のこと」という言に惑わされてはいけません。
人生に起こることすべてが一生に一度しかなく、成人式だけを特別扱いすることはないのです。
 
最近の成人の服装を観ると、女子は振り袖に白のショールで送迎付きが定番、男子はダークスーツのほか、タキシードや紋付羽織袴が増えているといいます。
大学進学率が50%を超えるいま、費用は親の懐から出ていて、本当の意味での「巣立ち」はまだまだ先のことでしょう。
 
我が身を振り返ってみると、時は1967年(昭和42年)1月15日、場所は松江市民会館で成人式が行われました。
学生ながらも松江市民となっていた私は、新成人として招待されていましたが、会場入り口でベトナム反戦・沖縄返還を求めるビラを撒いていたように記憶しています。
好景気に沸く日本で、前年のビートルズ来日に浮かれることなく、国内外の社会的矛盾の深まりを懸念していたのでしょう。
 
話は飛びますが、岡山にいる孫1は今年で10歳。
地域だったか学校かで「2分の1成人式」としてお祝いしてくれるそうです。
 
 
また、80歳となると「還暦後成人式」を祝う催しをするところもあるとか。
そういえば干支が一巡する還暦で生まれ変わるのだったら、これも有りかも知れませんね。
いろいろなことを考えさせられる「成人の日」でした。
 

2014年5月15日 (木)

旧制豊岡中学校 楽々浦殉難6学徒(再録)

今から69年前の「学徒沈没事故」について、5年前の記事を再びアップします。

豊岡高等学校の前身である旧制豊岡中学校の生徒6人が亡くなる水難事故がありました。
時は、敗戦間近の1945年5月14日正午頃、場所は、円山川河口の楽々浦(ささうら)。
生徒らは、学徒動員で対岸の山に向かい、薪の切り出しを終え、船で帰る際事故に遭いました。
家路を急ぐ生徒ら多数が船に乗り込みで、バランスが崩れ転覆し、6人が犠牲になりました。
帰りの汽車の時間が迫っていたのです。

事故があった近くの「福泉寺」前に追悼碑が建てられ、毎年中学校48期(当時3年生)、49期(2年生)50期(1年生)を中心に「追悼の会」が慰霊を続けています。
私の高校の恩師がこの会の世話人で、平和への思いがとりわけ強い彼からこの話を聞きました。

場所は城崎町上山、円山川左岸沿いです 
Img_1330  Img_1336
戦後64年を経過し、会のメンバーも高齢化する中で、追悼碑を高校敷地へ移設することも検討されたのですが、「宗教上の碑は受け容れられない」との回答で、敷地にある同窓会組織「達徳会館」に、追悼碑の写真と碑文の写しを額に入れ、預けることになりました。

右側には犠牲者名 左は文や書の作者と世話人名 
Img_1333  Img_1343
碑文は豊岡高校初代校長かつ校歌の作詞者で、アララギ派の歌人でもあった岡垣徹治によるものです。

事故の形ではあっても学徒動員の最中で、戦争の犠牲が若い中学生にまで及びました。

自分の高校時代と比べ、平和な時代を知ることなく、この世を去った生徒たちの無念さを思うと、改めて平和の大切さを考えさせられます。

当日、碑の前で「追悼の会」による読経・合掌がおこなわれました。

 

2014年4月12日 (土)

友を悼む

豊岡高校同期の日高町栃本在住のW君が9日早朝交通事故で亡くなりました。
「しんぶん赤旗」配達中の事故で、方向転換で道路を塞いだトラックに正面衝突して内臓へのダメージが主因でした。
その朝は霧が深かく、見透しが悪かったも不幸なことでした。

W君は大学卒業後尼崎市の中学教員の職を得て、課題の多い地域で矛盾があふれた時代に、生徒の立場に立って持ち前の笑顔と包容力で強い信頼を得てきました。
民主教育・社会正義を貫くために教職員組合活動に取り組む一方社会変革を志し日本共産党の党員としても活動を行ってきました。

停年後老いた母と田畑が待つ神鍋清滝地区に帰郷し、やりたかった農業に取り組むとともに、地区に同化することに努めました。
推挙されて栃本区の区長を3年、清滝地区の区長会長も努めました。
その中で「議員定数削減」などの問題についても、地域を代表して住民の立場で見事な論陣を張ったと聞いています。

今日12日執り行われた葬儀には、彼の死を悼む参列者であふれかえって、同期同窓生・恩師のお姿も多数拝見しました。
90歳を越しやつれられた母君のお姿を拝見し、「先立つ不孝」に心が痛みました。
当日の写真のお姿から壮絶な事故にもかかわらず、生前の彼の笑顔に癒された気がする別れでした。
ともに学んだ「豊岡高校18期生一同」からの弔電も出棺時に披露されました。

戦後民主教育に育った世代として、国家機密法の強行・集団自衛権の行使容認の動き、総理の靖国参拝と戦後歴史認識による中韓との確執などなど、W君ならずとも国の行く末がとても気になっています。

昭和・平成と、民主教育と社会正義と変革を求め生きたW君!安らかにお眠りください。

2014年3月31日 (月)

クジラ肉で大きくなった私

カテゴリーとしては、「食べ物」「国際」になるのでしょうが、私にとっては「青春」の思い出の一部です。
南極海での日本の調査捕鯨が国際捕鯨取締条約に違反するとして、国際司法裁判所は、調査捕鯨の許可取り消しと現在の形での捕鯨活動中止を言い渡し、日本政府も受け入れる意向を表明しました。

子供の頃、クジラは重要なタンパク源でした。
不味くて今でも思い出す「脱脂粉乳によるミルク給食」から始まって、中学生になると完全給食となり、パンにおかず皿が付くようになりました。
給食のおかずで、けんちん汁・カレーシチュー・クジラの龍田揚げが好きなベスト3でした。

家庭でも「クジラのステーキとクジラのカツ」のクジラ料理は当時のご馳走として欠かせないものでした。
父が役場勤めで多少の現金収入があったのと、5軒となりに魚屋さんが店を構えていたこともあったのでしょう。
店先には地元で取れるイカやカレイ・サバ・イワシ・キスなどに並んで、冷凍され筋(血管)を浮かせた大きな肉が血を滴らせて鎮座していました。
遠洋漁業でとれたクジラは流通の関係で魚屋さんの売り物だったのです。
月に二度くらいでしたか育ち盛りの子供4人に、クジラ肉のステーキかカツレツを奮発してくれました。
当時は捕鯨が盛んで値段も安かったのか、大人の手のひらよりも大きいものでした。
肉といえば家で飼っている鶏を潰すときだけの当時、これは最高の贅沢でした。
海のない岐阜出身の母でしたが、家庭菜園の野菜を主にタンパク源として地元の魚やクジラ肉を使って精一杯の料理を作ってくれました。

勤務地であった大阪のおでん屋のコロ(鯨油をとった脂肪の絞りかす)やオバケ(尻尾)も美味しかったけど、子供の頃に食べたクジラ肉のテキとカツが忘れられません。
「貧しかったけど、ひもじくはなかった」子供の頃の楽しい思い出です。

2013年3月 8日 (金)

府中小・中学校同窓会 反省会

昨年10月におこなわれた府中小・中学校同窓会の反省会をおそまきながら行いました。
前回の還暦同窓会は「会費を浮かせて費用の足しに・・」という目論見が外れ自腹の会でしたが、今回は何とか捻出できてお寿司と持ち寄りの料理で大いに盛り上がりました。
なによりも立派だと思うのは、17名が幹事として協力してくれて、今回全員が集合したことです。
2012府中小・中学校同窓会 ↓
http://izayamiki.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/2012-1142.html
 幹事全員集合
Scn_0006_3場所は同級生である小山くんの画廊(アトリエ小山)を提供してもらい、いつもながらミニ同窓会のような盛り上がりでした。
いつの頃からか「オリンピックの年に開催」 が決め事となり
ました。
次回はリオデジャネイロ開催の年(2016年)、数えで70歳、「古稀」の祝いも兼ねることになりました。

2013年3月 2日 (土)

昭和の冬遊び 雀捕り

自宅が円山川に近く、春から秋にかけて川遊びが主流でしたが、冬になると雪遊びのほかに雀捕りも楽しみの一つでした。
とくに雪が降り積もると小鳥たちは食べ物がないので、多羅葉(たらよう)や南天の赤い実を食べにやってきます。

当時の田圃の畦には、稲木に使う長丸太を積んで、屋根を藁で覆って置いてありました。
この近くが好ポジションで、雪が積もると空いた炭俵や桟俵(米俵の両端にあてる、わらで編んだ円いふた)を拡げて、ナイロンの釣り糸で輪っかをあちこちに仕掛けておき、米粒や糠・赤い実を撒いて雀の足が掛かるのを待ちます。

当時はカラスも少なく雀も沢山いたのですが、雀もバカではないのでなかなか輪っかに足を入れてくれませんが、忘れた頃に引っかかってバタバタしていることがあります。
この時のうれしさは格別で、子ども仲間への優越心が広がります。
捕った雀は羽根をむしって焼き鳥にして食べましたが、身が少なく骨ごとかじって食べると香ばしい味がしました。

雀といえばゴム銃(Y字型になった道具に付けたゴムを引いて小石を飛ばす)で狙うこともありましたが、留まっている雀とはいえ石が命中ことはまずありませんでした。
炭俵も桟俵も廃物利用で場所と仕掛けを工夫するものの、労も少ないので功も期待できませんでしたが、空を飛ぶ雀と知恵比べをした懐かしい思い出です。
大阪新世界のジャンジャン横町には「雀の丸焼き」が売られていて、仕事帰りに立ち寄ってジョッキ片手に子どもの頃を思い出しながら食べるが好きでした。

 

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