府中小学校の思い出 完全給食編
昭和36年の給食センターの完成で、小・中学校が隣接して
いた府中校区で完全給食が始まりました。
グラウンドに「フ中」の人文字(昭和31年11月)
白い建物が中学校と体育館、右横の古い校舎が小学校
主食はパンと決められていて、おかずが一皿出ていて、
カレーシチュー・けんちん汁・鯨の竜田揚げなどが人気
メニューでした。
男の子はさっさとおかずと汁を済ませ、残ったパンをポケ
ットに入れて、体育館や運動場で遊んだものでした。
アメリカからの援助は、米食中心の日本人をパン食に慣
れさせて 、米国の小麦の輸出を図る狙いがありました。
米に較べて作りにくい小麦から作るパンを食べる習慣が
でき、我が国の自給率がどんどん落ちたのを見ると、学
校給食を通じて日本人の食生活を欧風化・小麦化する狙
いは見事に成功しました。
その後学校給食にご飯が取りいれられたのは昭和51年
それから徐々に増え、豊岡市では平成21年から5日間す
べてがご飯に替わっているそうです。
ほとんど輸入に頼る小麦から、100%自給が可能な米に
切り替えるのになんと時間がかかったことでしょう。
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コメント
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なるほど、そういった経緯をたどっていたわけですか。知りませんでした。こんなとこにまでアメリカの影響があったとは。
投稿: 栄治 | 2012年1月27日 (金) 06時30分
栄治さん
豊岡市出身で食の専門家保田茂先生は、「パンを食べれば、間違いなく外国(多くはアメリカ)の麦畑を青々と茂らせ、かたや日本の水田にまた、青々と雑草を茂らせ、村を疲弊させている」と仰っています。
パン食を受け入れ子どもに拡げた団塊世代の責任も大きいと反省しています。
投稿: izayamiki | 2012年1月27日 (金) 08時09分